今回は悲惨な現状の話と音楽のお話。
二日酔いで頭は痛いしお腹は下るし気分は沈むしもうアルパカを1本開けたりするのはやめようと思いながら、沈んだ思考で考える。いまもこれからも、繋がりがないわけじゃないとしても、夢や希望がそばにあるような人生になったとしても、孤独感や虚無感が付きまとうんだろうか......と。死にたいとかじゃなくて、こういう浅はかな理屈っぽい部分だけを消し去りたいと思っている今日この頃です。ああ苦しい。強迫性障害も相まってしんどい。強迫性障害は、自分の場合、トイレに行く度の着替え、何かをする度の着替え、果ては意味もなく洗いたての服を脱いでは着てを繰り返したり。それ以外にも様々な症状が現れてきてます。案外部屋がぐちゃぐちゃになったり着替えがなくなれば適応出来てしまうんですが、そのためにわざわざそんな状態に自ら追い込んで『出来ないのなら仕方がない』と落ち着かせています。さながら自傷に近いような。
金銭面でも似たような現象が起こり、家族のいない身としては、今は非常に追い詰められている。ドヤ生活でもしようかと割と真剣に考えたりします。......はあ。甘い甘い甘い、でも自分にとっては苦い溜息をつく。......と、書いたのを下書きに入れたまま、一週間近くが経っていた。今日は珍しく、というか一周まわって生活リズムが整い始めたらしく、しばらく寝込んで何も入れていなかった空っぽの胃にすき家の定食を流し込んで、正午ジャストに心療内科に行った。早速昼間から『レキソタンとマイスリーとロヒプノール』を飲む。先行きの見えない不安、ジリ貧な生活への恐怖、孤独感、虚無感が薄れていく。ふわりと頭が柔らかくなる。不謹慎云々関係無しに、こういうときはよく頭が柔軟に働くため、これからへの打開策を考えている。街を歩く若者たちに劣等感と羨みを感じながら。
それからこれは唯一恵まれていた部分、いわゆる感性だけは一丁前に優れているらしく、1日1本映画をネット見して(1番最近では、『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』)、時たま映画館へも足を運ぶ(1番最近では『カメラを止めるな!』)。
そして音楽。名前も知らないわと言われてしまいそうだけど、andymori、AL、BBHF、銀杏BOYZ、ドレスコーズ、神聖かまってちゃん、小沢健二、星野源、リーガルリリーなどを聴いている。
最近のお気に入りは、自分でYouTubeにアップロードしたリーガルリリーのぶらんこという曲。
それからいつになっても色褪せない名曲が、andymoriの1984。
そしてandymoriが解散したあと結成されたALというバンドのハンアンコタ。
ということで、話がいきなり音楽に逸れてしまいましたが、今回は生い立ちを一旦置いておいて、次の記事にて、自分が初めて入院という経験をしたこと、イメージではSIRENのような異世界を連想していた自分からすればむしろ唯一の青春だったのかもしれないという(経度の、リフレッシュ入院などでも対応出来る病院だったのが幸いしたのだと思う)、入院生活について書き記していこうとおもいます。
それでは、長々と読んでくださった方がいたならば、閲覧ありがとうございました<(_ _*)>
......あ、今日ガス止まるや。
赤裸々な生い立ち②:学生時代、満たされなさの暴走
生い立ち①の方で空気を読んだ学生生活を営んできたと書いた。
そんな最中、自分が公立の偏差値低めな高校で決して青い春などどいう時代とは無縁な、むしろ森田童子さんの高校時代の主題歌が似つかわしいような生活を送っていたとき、父親が唐突に「自立をする」と言い始め、新しい彼女(後に義母となり、ドラマのような出来事に発展することになる)と沖縄へ、何故か沖縄へそそくさと旅に出ていってしまった。
祖母も自分も唖然とした。そうして祖母と自分だけの生活が始まり、そこからだと思う、自分の中にあった「普通」というネジが緩むどころか吹き飛んでいった。
とかくさみしい。物心もようやく付き始め、寂しさにより敏感になった。
そうして開いたのが、当時は父親のものであったノートパソコン。
寂しさを埋めるための術を探し、Skypeというツールがあることを知り、『スカイプちゃんねる』という掲示板に募集の書き込みを大量に、同時に当時はまだ今よりも身近な存在としてネットの世界に君臨していた2ちゃんねるの掲示板にまで自分のSkypeIDを公開し、そこで急激に、初めてだったという初々しさもあってか、自分と会話をともにしてくれる人が『ネットの世界の中で』増えていった。
僕にとって青春と呼べるものがあるとすれば、そこで出来たつながりと、後に記すことになる入院先で出会った同世代の友人たちと過ごした日々だと思う。
思い返すだけで胸が苦しくなる。
当時の僕は極端で、ネットはネット、病院は退院したら以後絶対にかかわらない、そういったプライドのようなものだけが先走り、全ての関係をある時点で絶った。あの時もしそんな極端な発想をせず、ネットだろうが何だろうが人と人とのつながりを大切にしていれば、今のような孤独な状況に陥ってはいなかったのではないかと、後悔の念に駆られたりする。
あくまで僕は話せないダルマではなかった。
今みたいにひねくれてもいなかったし、今思えば本当にピュアなつながりもあったじゃないか!とそれを自ら人を人とも思わず断ち切っていった自分を断ち切りたくなる。
唯、ピュアな関係ばかりが集っていたならば、こうはなっていないだろうという話にもなる。いい影響しかなかったならば、そこから入院だのなんだのと、兎に角いまの自分があるはずはない。
きっかけはとあるSkypeの知り合いとの出会いだった。
ハンドルネームさえ朧げだけれど、その人が教えてくれたことは、ベンゾジアゼピン系の安定剤、たとえばデパス、たとえばマイスリー、レキソタン、ロヒプノール......。
そういったものを過剰に服用することでその時の辛さが薄れ、むしろ快感へと繋がっていくというものだった。
そのころの自分は安定剤の類にはあまり詳しくなかったけど、ちょうど父親が沖縄に旅立ったとき、父親はそのSkype相手の言っていた類の薬を大量に家に置いて行っていたのだった。
タイミングがまるでアニメのありきたりな展開のようにドンピシャであり、僕はその人の言う通りにベンゾジアゼピン系だけの薬を覚え、それを飲んで学校へ行くようになり、その多幸感たるやすさまじく、今に至るまでODを繰り返し続けている。
ODといっても、死ぬための過剰摂取ではなく、ハイになるための所謂プチODを繰り返し続け、大学になんとか進学したあと、題名にある満たされなさの暴走が起きた。
大学に向かう途中にところ構わずマイスリーやレキソタンをワンシートずつ飲み、ハイになった状態で登校した自分は、多分、今でも記憶にないほどなのでその登校時に飲んだ薬で酩酊したことにより更に薬を追加したのだと思う。
気づいたら腕には大量のリストカットのあと、それから全身の打撲、そして目の前には警察官がいた。
どうやらハイになりすぎた僕は大学内をさまよいながら腕を切り、最終的に屋上にたどり着いたのち飛び降りたらしかった。
手には自分のものではないタバコが握られていた。
その後の事情聴取では、自分が男子ロッカー、女子ロッカーともにふらふらと入り、その場に落ちていたタバコを拾い(女子ロッカーに入ったにも関わらず容姿により女子生徒にはまるで気づかれなかったらしい)、旧校舎のような工事中の建物(サークルのスペースを広くするために新しい棟を建設中だったらしい)で腕を切りまくり、最終的には飛び降りた。
その全てが大学内の防犯カメラに映っていて、僕は警察の生活安全課と呼ばれる課に保護という形で事情を聞かされ、奇跡的にもなんの罪にも問われなかったが退学処分となり、そこで祖母は僕に入院を提案した。
余談になるが僕にはいまだに強迫性障害、適応障害以外の診断が出されていない。
生活保護を現在受給している理由も、厳密にいえば上記の二つも含まれてはいるが、家庭の事情が大きい。まだまだまだまだこのあとたくさんの出来事が待ち受けていて、なるべくしてこうなったのだという話に繋がるのだと思う。
.......ものすごくこれでも要約して書き記しているのは、早く今の自分に繋げていきたいからだ。こうやってカタカタと書いている今。
アブノーマルな生活は、いままさにど真ん中、土俵の真ん中にある。
そうなった経緯はさささっと書いて、それでも誰かに伝わってほしいから要約しながらも赤裸々に書き記している。
それから。
赤裸々といったからには、今の感情も赤裸々に書きたい。
正直被害者意識はある。環境のせいだと思う自分をひしひしと感じる。
しかし同時に、そんな環境のなかでも変われるやつは変われるし、動かないやつは一生今の自分のような状況に陥り、何もかも満たされなくなる。
結局は自分次第なのだとあらためて思っている自分もひしひしと感じています。
.......そんなこんなで、急いで詰め込んだ感満載な記事ではありましたが、どうかこれからもよろしくお願い致します。
~ 生い立ち③に続く ~
かず。のアブノな生い立ち①
1994年3月30日に富田和幸、はてなブログのHNでいうところのかずゆきが産まれた。
らしい、と付け加えても語弊はないんじゃないだろうかと、産まれたときの記憶がない自分からするとそんなひねくれたことを思ったりする。
出産予定日は一か月後の4月30日だったらしいけれど、当時19歳だった母親の喫煙、飲酒、自傷行為(OD)などによって一か月ズレて産まれてくることになった。
今の自分は非常にズレているけれど、そのズレはもしかすると産まれたその瞬間から起こっていた事象だったのかもしれない。
なんといってもその母親はその後赤子の僕にタバコを食わせたり滑り台から落っことしたりと、母親は境界性人格障害を患っていたのだが、まさしくボーダーラインぎりぎりなことを記憶のない頃の自分に施してきたらしい。
親が親なら子も子、、、などど言うと逃げ口上、甘えになってしまうのだが、今こうしてキーボードを打ち込んでいる自分の手首についている傷を見ると、母親そっくりな腕をしている、とひどく血の気が引いてくるのを感じる。
どう生活を成り立たせていたのかといえば、デキコンしてしまった二人は、お父さんのお母さん、つまり僕のおばあちゃんの元で実家暮らしをすることになった。おばあちゃんからすれば、血縁上は孫であったとしても、その後すぐ、
ちょうど今の自分と同じ年の頃に母親が自殺してしまったため、お父さんが一人目の息子、僕が二人目の息子、僕側から見ればおばあちゃんが母親の代わりだった。
お父さんもまだ今の自分ほどの年齢だったため、同じことで叱られたり、子供じみたことで喧嘩をしたり、ある種兄弟のような、どうしても父親、という実感がわかないような関係でいた。それをうらやましいと当時言ってくれる同級生の数少ない友人もいたけれど、学校という空間に通う頃には僕はもうすでに母性にひたすらに餓えた人間になっていて、かついじめられたくはないという強い思いから空気をひたすらに読み、同年代に敬語を使うくらい人見知りでおとなしいけれど、へこへこし過ぎず、自分はちゃんと持っている、そんなキャラ、設定みたいなものを作り上げて、いつしかそれがほんとうの自分のアイデンティティーになり、いじめられない代わりに友人はほとんど出来ないといった学園生活を送っていた。
〜 生い立ち②に続く 〜
これから自分が今のジリ貧でメンヘラな自分に至るまでの生い立ちを、自分の中でも整理する意味で書き記していこうと思います。