アブノーマルでメンヘラな24歳の赤裸々日記帳

リスカが趣味だった母親が自分を産んでまもなく、今の自分くらいの歳で自殺し、父親とは分籍、義母の登場など紆余曲折あり自分も母親に似たのか孤独感や虚無感に甘え時にはリスカし、抗不安薬を飲みながら引きこもる生活保護受給者が淡々と赤裸々に生い立ちなどを書き記すブログです。

赤裸々な生い立ち②:学生時代、満たされなさの暴走

生い立ち①の方で空気を読んだ学生生活を営んできたと書いた。

 

そんな最中、自分が公立の偏差値低めな高校で決して青い春などどいう時代とは無縁な、むしろ森田童子さんの高校時代の主題歌が似つかわしいような生活を送っていたとき、父親が唐突に「自立をする」と言い始め、新しい彼女(後に義母となり、ドラマのような出来事に発展することになる)と沖縄へ、何故か沖縄へそそくさと旅に出ていってしまった。

祖母も自分も唖然とした。そうして祖母と自分だけの生活が始まり、そこからだと思う、自分の中にあった「普通」というネジが緩むどころか吹き飛んでいった。

とかくさみしい。物心もようやく付き始め、寂しさにより敏感になった。

そうして開いたのが、当時は父親のものであったノートパソコン

寂しさを埋めるための術を探し、Skypeというツールがあることを知り、スカイプちゃんねる』という掲示板に募集の書き込みを大量に、同時に当時はまだ今よりも身近な存在としてネットの世界に君臨していた2ちゃんねる掲示板にまで自分のSkypeIDを公開し、そこで急激に、初めてだったという初々しさもあってか、自分と会話をともにしてくれる人が『ネットの世界の中で』増えていった。

僕にとって青春と呼べるものがあるとすれば、そこで出来たつながりと、後に記すことになる入院先で出会った同世代の友人たちと過ごした日々だと思う。

思い返すだけで胸が苦しくなる。

当時の僕は極端で、ネットはネット、病院は退院したら以後絶対にかかわらない、そういったプライドのようなものだけが先走り、全ての関係をある時点で絶った。あの時もしそんな極端な発想をせず、ネットだろうが何だろうが人と人とのつながりを大切にしていれば、今のような孤独な状況に陥ってはいなかったのではないかと、後悔の念に駆られたりする。

あくまで僕は話せないダルマではなかった。

今みたいにひねくれてもいなかったし、今思えば本当にピュアなつながりもあったじゃないか!とそれを自ら人を人とも思わず断ち切っていった自分を断ち切りたくなる。

唯、ピュアな関係ばかりが集っていたならば、こうはなっていないだろうという話にもなる。いい影響しかなかったならば、そこから入院だのなんだのと、兎に角いまの自分があるはずはない。

きっかけはとあるSkypeの知り合いとの出会いだった。

ハンドルネームさえ朧げだけれど、その人が教えてくれたことは、ベンゾジアゼピン系の安定剤、たとえばデパス、たとえばマイスリーレキソタンロヒプノール......。

そういったものを過剰に服用することでその時の辛さが薄れ、むしろ快感へと繋がっていくというものだった。

そのころの自分は安定剤の類にはあまり詳しくなかったけど、ちょうど父親が沖縄に旅立ったとき、父親はそのSkype相手の言っていた類の薬を大量に家に置いて行っていたのだった。

タイミングがまるでアニメのありきたりな展開のようにドンピシャであり、僕はその人の言う通りにベンゾジアゼピン系だけの薬を覚え、それを飲んで学校へ行くようになり、その多幸感たるやすさまじく、今に至るまでODを繰り返し続けている。

ODといっても、死ぬための過剰摂取ではなく、ハイになるための所謂プチODを繰り返し続け、大学になんとか進学したあと、題名にある満たされなさの暴走が起きた。

大学に向かう途中にところ構わずマイスリーレキソタンをワンシートずつ飲み、ハイになった状態で登校した自分は、多分、今でも記憶にないほどなのでその登校時に飲んだ薬で酩酊したことにより更に薬を追加したのだと思う。

気づいたら腕には大量のリストカットのあと、それから全身の打撲、そして目の前には警察官がいた。

どうやらハイになりすぎた僕は大学内をさまよいながら腕を切り、最終的に屋上にたどり着いたのち飛び降りたらしかった。

手には自分のものではないタバコが握られていた。

その後の事情聴取では、自分が男子ロッカー、女子ロッカーともにふらふらと入り、その場に落ちていたタバコを拾い(女子ロッカーに入ったにも関わらず容姿により女子生徒にはまるで気づかれなかったらしい)、旧校舎のような工事中の建物(サークルのスペースを広くするために新しい棟を建設中だったらしい)で腕を切りまくり、最終的には飛び降りた。

その全てが大学内の防犯カメラに映っていて、僕は警察の生活安全課と呼ばれる課に保護という形で事情を聞かされ、奇跡的にもなんの罪にも問われなかったが退学処分となり、そこで祖母は僕に入院を提案した。

余談になるが僕にはいまだに強迫性障害適応障害以外の診断が出されていない。

生活保護を現在受給している理由も、厳密にいえば上記の二つも含まれてはいるが、家庭の事情が大きい。まだまだまだまだこのあとたくさんの出来事が待ち受けていて、なるべくしてこうなったのだという話に繋がるのだと思う。

 

.......ものすごくこれでも要約して書き記しているのは、早く今の自分に繋げていきたいからだ。こうやってカタカタと書いている今。

アブノーマルな生活は、いままさにど真ん中、土俵の真ん中にある。

そうなった経緯はさささっと書いて、それでも誰かに伝わってほしいから要約しながらも赤裸々に書き記している。

それから。

赤裸々といったからには、今の感情も赤裸々に書きたい。

正直被害者意識はある。環境のせいだと思う自分をひしひしと感じる。

しかし同時に、そんな環境のなかでも変われるやつは変われるし、動かないやつは一生今の自分のような状況に陥り、何もかも満たされなくなる。

結局は自分次第なのだとあらためて思っている自分もひしひしと感じています。

.......そんなこんなで、急いで詰め込んだ感満載な記事ではありましたが、どうかこれからもよろしくお願い致します。

 

~ 生い立ち③に続く ~